読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

暮らしの武将

暮らしや仕事に役立つ戦国武将の知恵やエピソードをご紹介いたします。

ソーシャルハラスメントにご用心

こんにちわサエモンノ輔でござる。

戦国武将の逸話を調べていると、有名な武将はやっぱりどこか突き抜けているんだなあと思います。数多くの名言もあるのですが、それと同じくらい奇行も多いんですよね。
むしろ、無名に近い家老や家臣のエピソードの方が、僕らの参考になる話が多いように思うのです。

今回はそんな家老をご紹介します。
安藤直次です。
徳川家康の家臣で、江戸幕府初期の老中です。
直次はとにかく真面目・正直を絵に描いたような人物だったようで、こんな逸話が残されています。
大坂冬の陣が終わった時の事。
家康は終戦と同時に大坂再征をごく僅かな重臣と相談をしていた。それを次ノ間で休んでいた直次は聞いてしまい、再征に向けていち早く準備をします。夏になり陣ぶれが出されると、他の家臣が慌てている中、直次は一番に着陣し家康から褒められるのですが、「直次の直は正直の直」でお馴染み直次は「実は次ノ間で聞いてました。」と打ち明けます。するとその正直さがさらに褒められるのでした。

どうですか、この「正直者が一番」的なエピソードは。これだけでもサリーマンの模範となるような話ですよね。

そんな直次が説く上司の心得が、また良いんです。

直次がその実直さを見込まれ、家康の息子・紀州頼宣の家老となっていたときの話。
舶来の遠眼鏡を家康から貰った頼宣は、城の櫓から城下の通行人を覗いては、「着物の紋所までありありと見える」とはしゃいでいた。それを聞いた直次は遠眼鏡を壊してこう言ったと言います。
「およそ奉公人は、ここぞという表働きで役に立つよう、陰では無作法に格好を崩して鋭気を養っているもの。家臣の休みの様子を君主は敢えてうかがってはなりません。殿様が常に城の上から見てござると知れたなら、下々の者は誰も道を歩けまい。」

皆さん、大丈夫ですか?
むやみやたらに部下とFaceBookで繋がろうとしていませんか?
無神経にプライベートへ踏み込んでしまわないように注意しましょうね。


安藤 直次(あんどう・なおつぐ)
1555〜1635
江戸幕府老中。紀州徳川家家老。
息子が戦死した際、息子の遺体を収容しようとする家臣に対して「犬にでも食わせておけ」と言って、混乱する軍を立て直したという。猛烈サラリーマンの元祖のような人物。

 

次回は4月2日更新予定です。

必要なのは「はらたいらさんに全部」

こんにちは。サエモンノ輔でござる。

 

人生には大なり小なり勝負時ってありますよね。
ここぞという時に自分の全てを賭ける瞬間です。そう、まさに「はらたいらさんに全部!」という感じに。
肝心なのは「度胸」と「タイミング」です。

 

それでは今回はそんな戦国クイズダービーを勝ち残った武将をご紹介しましょう。

 

彼の名前は山内一豊

尾張(現在の愛知県)出身の武将です。一豊を支える賢い妻とのお話が、司馬遼太郎の小説「功名が辻」で有名です。大河ドラマにもなりましたね。

 

一豊は豊臣秀吉の古くからの家臣で、とても律儀な人物として可愛がられたそうです。
戦場で部下から焼き大根を勧められると、口が臭くなって秀吉に会った時に失礼になると言って食べなかったなんていう、戦国武将らしからぬ繊細な逸話が残っている律儀者です。
しかし、律儀なだけで出世が出来るほど戦国時代は甘くはありません。同僚が10万石、20万石の大名になっていくのに、一豊は掛川5万石。

 

そんな一豊にやってきた勝負の瞬間。
それが世に言う「小山評定」です。
小山評定とは、現在の栃木県小山市で行われた軍議の事。この会議、関ヶ原の合戦直前に行われ、東軍の諸大名はまだどっちに味方をするのか決めかねていました。
我らが一豊は、徳川家康への味方を表明します。とは言っても、所詮は5万石ですから兵の数も少なく、あまり意味がありません。
そこで一豊は「徳川家康さんに全部!」とばかりに城から兵糧、領地まで全部を家康に差し出すと宣言。すると、他の大名達も我も我もと家康に領地を差し出しはじめ、家康は東日本のほとんどを手に入れる事が出来ました。
その後、本戦の関ヶ原の合戦では大した武功を立てられなかった一豊でしたが、全財産を賭けたあの一言のおかげで、土佐一国22万石の大大名へと出世したのでした。

 

重要なポイントだったのは、全部賭ける度胸と誰よりも先に切り出したタイミングだった訳ですね。
実は、領地から何から全部差し出すというアイデアは一豊が考えた物ではなく、旧知の仲だった堀尾忠氏の考えでした。忠氏が躊躇している間に一豊が発言してしまった…というの真相のようです。


会議や商談のここぞという場面で、常人と成功者を分けるのは度胸だけなのかもしれませんね。

 

山内 一豊(やまうち  かずとよ)

1545〜1605

一兵卒から高知の大名へと駆け上った武将。

司馬遼太郎の「功名が辻」のおかげで有名にもなったが、妻の尻に敷かれた大名として認知されてしまう。

 

教育って難しい


こんにちはサエモンノ輔でござる。

受験シーズンも終わり、そろそろ合格発表の時期ですね。
頑張ってきた受験生や身内の方にとっては落ち着かない日々でしょうか。

 

今回はそんな方々に贈りたいと思います。

 

主人公は前回登場の今川義元と天下人徳川家康

徳川家康は9歳から18歳の間まで、今川家で人質として暮らしていました。
さぞかし肩身の狭い思いをしていたのだろうと思いきや、意外と自由に暮らしていたようです。
実はこの待遇は今川義元の家康に対しての教育方針が裏にあったからなんです。

義元は人質である家康の教育について、家臣にこう命じます。「むごい教育をしろ」と。
命じられた家臣は、粗末な食事と朝から晩まで休まずに武芸や勉学を仕込もうとしました。
ところが義元は「朝から晩まで贅沢な食事をさせよ。寝たいときはいつでも何処でも好きなだけ寝かせよ。勉学はしたくないならさせないでよい。大概の人間はこうすれば駄目になる。」と言ったそうです。
子供の頃から駄目人間に教育してしまおうという訳です。
今川義元恐るべし。
その策略が功を奏したのかどうかは分りませんが、人質時代の家康のエピソードには、殺生禁止のお寺の山で鷹狩りをしたいと駄々をこねて強行した話や、日頃から気に入らなかった家臣をいきなり縁側から蹴り落とすなんていう話があり、ワガママな癇癪持ちだったようです。

 

え?でも徳川家康は天下を取ったじゃないかって?

 

そうなんです。家康はこれで終わらなかったんです。この後、ありとあらゆる事を身につけていきます。
武芸は剣術、弓術、砲術馬術、水術を一流の域にまで体得。沢山の書物を読み込み、医術や生薬にも通じ、はては数学や幾何学までも勉強していたそうです。
この向上心があればこその天下人なんでしょうね。

 

ところで今川家ですが。義元の死後、嫡男氏真が跡を継ぎます。
氏真は蹴鞠が上手な愛妻家に成長しますが、武田信玄に滅ぼされてしまいます。
きっと義元から一流の教育を受けたはずなんですけどねー。

 

悪意を持って教育をされても天下を取れるし、一流の教育を受けても家を滅ぼしてしまうんですね。

希望の学校に入れようが入れなかろうが、環境が良かろうが悪かろうが、本人の努力いかんで道は拓けるんじゃないでしょうか。


徳川家康(とくがわ・いえやす)
1543〜1616
戦国三英傑の一人。
海道一の弓取りの異名を持つ。
様々なエピソードが神がっていて真実はよくわからないが、汚れても目立たないように黄ばんだ布で褌を作らせ、洗濯回数を減らしていたのは事実のようだ。

 

次回は3月5日更新予定です。

思い込みで損してませんか?

思い込みや古い情報のせいで誤解してる事ってありますよね。厄介なのは、人間はその誤った知識に固執しがちだという事。自分が習った情報は絶対だと思うあまり、最新の知識や新しい情報を受け入れられないのはちょっともったいないですよね。

戦国武将にもいるんです。
過去の通説と、最新の評価が全く違う方が。

そのお方の名は今川義元

今川義元といえば、今大河ドラマ「おんな城主 直虎」での春風亭昇太さんの怪演が話題の武将です。
一般的には「織田信長の踏み台」みたいな印象が強いんじゃないでしょうか。
しかし、このお方の先進的な考えは決して信長に劣るものではありません。
一つは軍事制度。
義元は寄親寄子制という制度を採用します。従来の主従関係というのはほぼ対等で、大名は近隣豪族の盟主みたいな物でした。軍役も自由参加の色合いが強くて、勝てそうな戦には沢山の兵が集まりますが、負けそうな場合には集まらないというのが普通でした。なので、当時の大名は自分の兵数がどれだけ集まるかは当日にならないと分からないありさまだったようです。ところが義元の寄親寄子制はというと、常時大規模動員が可能でした。どういう制度なのかといいますと。まず有力家臣を寄親として、その下に地侍などの小規模家臣を寄子として複数配置します。寄親は日常様々な事から寄子を保護し、その代わりに寄子は戦時には寄親の元に駆けつけるという相互契約関係でした。これにより命令系統は義元→寄親→寄子とスムーズに伝わり、相互契約のおかげで動員兵数もコントロール出来るようになった訳です。つまり、僕たちが現在イメージする戦国大名の主従関係を作り上げたのが義元という訳です。

この組織の見事さが証明されたのは皮肉にも桶狭間で義元が討ち取られた時です。先鋒の精鋭部隊は寄親の指示の下、逃亡者を出す事なく本陣の救援に向かい、部隊が全滅するまで戦ったと言います。また、先に砦を占領していた部隊も、狼狽えて本国に退却するような事はなく、義元の命令を遵守し織田軍を追い払ったそうです。


もう一つの義元の先進性を表すのが今川仮名目録追加21条。これは義元のお父さんが制定した法律に21条の項目を追加した法律ですが、これには室町幕府を否定し独立を宣言したくだりがあります。この凄さはなかなか分かりにくいので、現在の組織で例えてみましょう。
義元以前の下克上で成り上がった戦国大名というのは、副知事や警察署長が知事を倒して自分が知事になるようなものです。そして、日本政府から新たに知事として認めてもらい、その威光で統治を行っていました。あくまで、政府あっての地方自治体という関係ですね。ところが義元は、静岡県知事が政府を見限って日本から独立すると宣言したわけです。義元はそれが可能なだけの法律を整備し、経済環境を整え、軍事能力を備えていたと名将だったのです。

 

では、なぜそんな名将が現在では多くの人に凡将の見本のように思われているのでしょうか。
僕は原因は2つあるんじゃないかと思うんです。
1つ目は織田信長人気です。
現在でも好きな歴史上の人物で常に上位にくる信長ですが、これは今に始まった事ではなくて、江戸の頃にはすでにヒーローでした。
必然的に信長最初の敵である義元は、かませ犬の役回りとなります。それも400年以上の間。そりゃ評価も低くなりますよね。
2つ目は現在との価値観の違いからくる思い込みです。資料に出てくる義元の描写は、武将なのにお歯黒や公家風の化粧をしていたとか、馬に乗らず輿で移動していたとか、貴族を保護して歌会なんかをしていたという公家かぶれな物が多くあります。いかにも弱そうって思うでしょ?でもこれ勘違いです。
例えばお歯黒や公家風の化粧。これは守護大名以上の名門大名にのみ許された特権階級のファッションだったそうです。今でいうとセレブがカリスマ美容師にカットしてもらうといったところでしょうか。ですから、一般人からすると憧れの対象だったわけです。
輿も同じです。足利将軍家から許された特別待遇の証でした。アメリカ大統領特別機みたいなもんですね。
貴族の保護は財力のある証拠ですから、アラブの石油王がサッカーチームを買い取るみたいなもんです。

こうして見ていくと、自分の価値観との違いや思い込みが原因で、随分と見え方が変わってくると思いませんか?
本当の事を見えなくしているのは、自分の思い込みなのかもしれませんね。


今川 義元(いまがわ・よしもと)
1519〜156
駿河遠江(現在の静岡県)の守護大名
数々の先進的な実績があるにも関わらず、最も有名な実績は「織田信長が世に出る踏み台」だったりする悲劇の武将。

 

 

人生いろいろ

こんにちは。
サエモンノ輔でござる。

アメリカではトランプ大統領が正式に誕生しました。その言動はお世辞にも人格者とは言えませんが、権力者として認められてしまうんですね。いやはや、人生分からないものです。

今日はそんな人生色々だなあ…というお話を。

主人公の名前は今川氏真
足利将軍家一門の中でも名門・今川家の12代当主で、駿河(現在の静岡県)の守護大名だった人物です。今でいうスーパーセレブですね。
しかも、彼はただのスーパーセレブじゃありませんでした。非常に才能溢れる人物だったのです。
和歌を詠めば時の天皇からその才能を認められ、蹴鞠をすれば時の権力者の前で華麗に披露。さらに剣術は、剣聖塚原卜伝の弟子として免許皆伝を許されたという達人。
こんな文武両道を極める氏真ですから、さぞかし名将としての功績があるのだろうと思うでしょ?ところが氏真、日本三大「凡将」や「ダメ息子」として名を残す男なんです。

彼のお父さんは今川義元
義元は、今でこそ桶狭間織田信長に討ち取られたダメ武将みたいなイメージですが、今川仮名目録という独自の法律を整備したり、戦をすれば近隣大名から「東海道一の弓取り」と呼ばれる程の戦上手で、超A級戦国大名だったのです。

そんなカリスマお父さんの庇護の元、氏真は芸事を極めていたのですが、桶狭間の戦いで父義元が織田信長に討ち取られてしまい、人生が一変します。
桶狭間の合戦後、氏真は父の弔い合戦もできずにオロオロしている間に隣国のスーパー武将・武田信玄や、徳川家康に領地を奪われてしまいます。
領地を奪われた氏真は、奥さんの実家である関東の北条家に身を寄せます。しかし、ホッとしたのもつかの間。今度はこの北条家が武田信玄と同盟を結んでしまいました。関東を追放されてしまった氏真は、徳川家康の庇護を受ける事にします。
その後、氏真は京都で長い余生を過ごし77歳で亡くなりました。

多彩な才能を持っていても権力者としては成功しなかったんですね。
しかし、じゃあ氏真が悲惨な人生だったかというと、そんな事はないじゃないかと思うんです。
北条家から追放されたとき、奥さんは実家には残らず氏真について行きます。夫婦仲は円満で年老いても一緒だったそうです。
息子は徳川幕府の儀式や典礼を司る家柄である高家として栄えていきます。
怨みのような物からも解放されていた節があり、氏真が蹴鞠を披露した権力者とは父の仇織田信長の事です。

いかがですか?愛する妻とは支え合い、息子は立派に出世をし、怨みのような感情は切り捨て、趣味の和歌を詠んで暮らす日々。
これはこれで大成功の人生だったんじゃないですかね。

今川 氏真(いまがわ・うじざね)
1538〜1615
駿河国守護大名武田信玄徳川家康によって没落。後年、織田信長長篠の戦いに徳川軍として従軍し、信玄の息子勝頼討伐に参加していた事はあまり知られていない。

兄弟ブログ更新のお知らせ

兄弟ブログである「2.3次元イラスト戦国絵巻」を更新しました。

 

今年から勝手に大河ブログと題して戦国武将を一年通してご紹介していきます。

記念すべき最初の人物は石田三成です。

ぜひご覧ください。

 

2.3次元イラスト戦国絵巻
http://2poit3emaki.blog.fc2.com/

失敗したくない

あけましておめでとうございます。
サエモンノ輔でござる。

 

過去にしでかした大失敗を不意に思い出す事ってありませんか?
僕はそういう時に「アーーーー!」と、奇声を発してしまいます。月に2回くらい、この「思い出し叫び」がやってきます。
思い出すのは、以前勤めていた外食チェーン店社員時代の失敗がほとんどです。
「食材が届きません」というバイトの子からの電話で、自分が発注日を間違えていたことに気づいた事や、フルーツと生クリームがモリモリのパフェをお客さんに提供する直前で倒してしまい、あろうことかそのお客さんに正面からパフェを浴びせてしまった事などなど。

こうして文章を書いてる最中にも奇声を発してしまいそうです。
人間ですから失敗はつきものだし、失敗から学び、大きく成長していくことこそが人生には重要だってことは分かっていますが…やっぱり失敗はしたくないですよね!?

そんな僕らに失敗しない秘訣を戦国武将が教えてくれます。

 

武将の名前は加藤嘉明


どんな武将かと言いますと、少年時代は馬喰の丁稚でした。ただ、なかなか見所のある少年だったようで、羽柴秀吉の家臣に見込まれたことで転機を迎え、秀吉に仕えることとなります。

そこからすぐに戦場に出るようになり、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人として数えられるほどに活躍。出世して淡路国(現在の淡路島)を任されると水軍を編成。

その淡路水軍を率いて九州征伐小田原征伐、朝鮮攻めと各地で活躍し、その冷静沈着な采配ぶりから「沈勇の士」と呼ばれる名将となります。

秀吉死後は徳川幕府からも信頼をおかれ、最後は会津40万石の大名へと出世した叩き上げの武将です。

 

この嘉明、失敗するのが大嫌いだったらしく、様々な失敗しない方法を残しているんです。

今回はそれを二つにまとめてみました。

 

一、念には念を入れて工夫をしろ
嘉明軍には様々な決まりがありました。
例えば帯の結び方。

通常、帯は後ろで結ぶものですが、それではいざという時に手間取ったり時間がかかる。そこで嘉明は、帯は前脇で結ぶべしと決めてしまいました。

槍についても、柄の長さは自由でいいが槍穂(槍の刃物部分)については四寸(約12センチ)と決められていました。槍穂が短すぎると鎧を突いた時に体まで到達しないことがあるためという理由なんですが、そもそも当時の槍は叩いて攻撃する道具だったので、突く事自体がまれな使い方。要するに万が一の備えとしての決まりだったんですね。
まあなんとも細かく色々と心配する武将ですが、嘉明軍では一事が万事この調子だったそうです。
ただ、この形式や慣習にとらわれず念には念を入れて工夫を凝らすことこそが、失敗のリスクを下げて戦に勝つ秘訣だったのでしょう。

 

二、調子にのるな
そんな失敗対策は嘉明の格言にもあちこちみられます。

例えば「己を慎む者に失敗はない。何事も馴れたつもりで巧者ぶる者は必ず仕損ずるものである」というのがあります。

調子にのってると失敗するぞってことですよね。

他にも「平時から躾を大切にしろ。そうすれば一旦急の場合にもまごつかずに失敗せぬものなり。」なんていうものも。

これは日頃の準備・訓練がいざというときモノをいうってことですね。
つぎつぎと耳の痛い格言ですが、嘉明家中ではこういう格言を厳守していたので、一糸乱れぬ行動が出来、軍功を挙げていったのでしょうね。

 

どうでしたか?
あれ?結局当たり前の事ばっかりでしたか?
でも、その当たり前を徹底する事こそが失敗しない唯一の方法なのかもしれませんね。
今年はそんなことに注意して過ごしていきませんか?
そしていつか言ってやりましょうよ。
「私、失敗しないので」って!

 

ところで嘉明ですが、名だたる戦で武功を挙げ、40万石の大大名となったわりには現在の知名度は高くありません。僕はその原因も失敗しなかったからじゃないかと思うんです。だって、ハイリスクハイリターンの豪傑肌じゃないと物語は盛り上がりませんからね。そうなると、後世で有名になれなかった事が嘉明唯一の失敗になるのでしょうか。いやいや、きっとこの地味でも堅実な名前の残り方こそ、してやったりとほくそ笑んでることでしょうね。


加藤 嘉明(かとう・よしあき)
1563〜1631
会津43万石の領主。
羽柴秀吉の家臣として活躍。有名な賤ヶ岳七本槍の一人でありながらも、同性の清正の方が有名なため、「じゃない方の加藤」という認識をされてしまう可哀想な武将。

 

次回の更新は1月22日です。