暮らしの武将

暮らしや仕事に役立つ戦国武将の知恵やエピソードをご紹介いたします。

兄弟ブログ更新のお知らせ

兄弟ブログである「2.3次元イラスト戦国絵巻」を更新しました。

 

今年から勝手に大河ブログと題して戦国武将を一年通してご紹介していきます。

記念すべき最初の人物は石田三成です。

ぜひご覧ください。

 

2.3次元イラスト戦国絵巻
http://2poit3emaki.blog.fc2.com/

失敗したくない

あけましておめでとうございます。
サエモンノ輔でござる。

 

過去にしでかした大失敗を不意に思い出す事ってありませんか?
僕はそういう時に「アーーーー!」と、奇声を発してしまいます。月に2回くらい、この「思い出し叫び」がやってきます。
思い出すのは、以前勤めていた外食チェーン店社員時代の失敗がほとんどです。
「食材が届きません」というバイトの子からの電話で、自分が発注日を間違えていたことに気づいた事や、フルーツと生クリームがモリモリのパフェをお客さんに提供する直前で倒してしまい、あろうことかそのお客さんに正面からパフェを浴びせてしまった事などなど。

こうして文章を書いてる最中にも奇声を発してしまいそうです。
人間ですから失敗はつきものだし、失敗から学び、大きく成長していくことこそが人生には重要だってことは分かっていますが…やっぱり失敗はしたくないですよね!?

そんな僕らに失敗しない秘訣を戦国武将が教えてくれます。

 

武将の名前は加藤嘉明


どんな武将かと言いますと、少年時代は馬喰の丁稚でした。ただ、なかなか見所のある少年だったようで、羽柴秀吉の家臣に見込まれたことで転機を迎え、秀吉に仕えることとなります。

そこからすぐに戦場に出るようになり、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の一人として数えられるほどに活躍。出世して淡路国(現在の淡路島)を任されると水軍を編成。

その淡路水軍を率いて九州征伐小田原征伐、朝鮮攻めと各地で活躍し、その冷静沈着な采配ぶりから「沈勇の士」と呼ばれる名将となります。

秀吉死後は徳川幕府からも信頼をおかれ、最後は会津40万石の大名へと出世した叩き上げの武将です。

 

この嘉明、失敗するのが大嫌いだったらしく、様々な失敗しない方法を残しているんです。

今回はそれを二つにまとめてみました。

 

一、念には念を入れて工夫をしろ
嘉明軍には様々な決まりがありました。
例えば帯の結び方。

通常、帯は後ろで結ぶものですが、それではいざという時に手間取ったり時間がかかる。そこで嘉明は、帯は前脇で結ぶべしと決めてしまいました。

槍についても、柄の長さは自由でいいが槍穂(槍の刃物部分)については四寸(約12センチ)と決められていました。槍穂が短すぎると鎧を突いた時に体まで到達しないことがあるためという理由なんですが、そもそも当時の槍は叩いて攻撃する道具だったので、突く事自体がまれな使い方。要するに万が一の備えとしての決まりだったんですね。
まあなんとも細かく色々と心配する武将ですが、嘉明軍では一事が万事この調子だったそうです。
ただ、この形式や慣習にとらわれず念には念を入れて工夫を凝らすことこそが、失敗のリスクを下げて戦に勝つ秘訣だったのでしょう。

 

二、調子にのるな
そんな失敗対策は嘉明の格言にもあちこちみられます。

例えば「己を慎む者に失敗はない。何事も馴れたつもりで巧者ぶる者は必ず仕損ずるものである」というのがあります。

調子にのってると失敗するぞってことですよね。

他にも「平時から躾を大切にしろ。そうすれば一旦急の場合にもまごつかずに失敗せぬものなり。」なんていうものも。

これは日頃の準備・訓練がいざというときモノをいうってことですね。
つぎつぎと耳の痛い格言ですが、嘉明家中ではこういう格言を厳守していたので、一糸乱れぬ行動が出来、軍功を挙げていったのでしょうね。

 

どうでしたか?
あれ?結局当たり前の事ばっかりでしたか?
でも、その当たり前を徹底する事こそが失敗しない唯一の方法なのかもしれませんね。
今年はそんなことに注意して過ごしていきませんか?
そしていつか言ってやりましょうよ。
「私、失敗しないので」って!

 

ところで嘉明ですが、名だたる戦で武功を挙げ、40万石の大大名となったわりには現在の知名度は高くありません。僕はその原因も失敗しなかったからじゃないかと思うんです。だって、ハイリスクハイリターンの豪傑肌じゃないと物語は盛り上がりませんからね。そうなると、後世で有名になれなかった事が嘉明唯一の失敗になるのでしょうか。いやいや、きっとこの地味でも堅実な名前の残り方こそ、してやったりとほくそ笑んでることでしょうね。


加藤 嘉明(かとう・よしあき)
1563〜1631
会津43万石の領主。
羽柴秀吉の家臣として活躍。有名な賤ヶ岳七本槍の一人でありながらも、同性の清正の方が有名なため、「じゃない方の加藤」という認識をされてしまう可哀想な武将。

 

次回の更新は1月22日です。

部下を成長させたい

こんにちわ、サエモンノ輔でござる。

みなさんは部下や後輩との関係は良好ですか?
最近は、ゆとり世代社員との感覚の違いが面白おかしく取り沙汰されていますが、私が社会に出た頃も「団塊ジュニア世代」なんて言われましたし、更に上の世代は「新人類」と言われて、「最近の若い奴は!」なんて言われたもんです。
それだけ部下教育というものは永遠の課題なんでしょうね。

今回はそんな管理職の方にお送りする戦国式部下教育メソッドです。
講師の先生は前回に引き続き「名人久太郎」こと堀秀政先生です。

久太郎式教育三か条
①新人は身近において教育すべし。
久太郎先生は、新たに雇った部下には朝夕の食事を一緒にさせて親しみ、次に「奏者」という取次役をやらせ、2ヶ月した頃に本式の配属先を決めたそうです。

現代風に考えると、
まず、ランチや飲み会などを通して会話をし、どういう個性の人間なのか理解する。
次に、身近において簡単な仕事をやらせながら適正を観察。
最後にその仕事ぶりから本採用の配属を決める。という事でしょうか。
最近では、とかく即戦力としての能力が求められる傾向があるようですが、身近で仕事をみせる昔の「カバン持ち」教育は有効だったんですね。

②部下の適正を見極めて仕事を任せるべし。
久太郎先生にはこんなエピソードも。
家臣にいつも泣きっ面で辛気臭い男がいたそうです。家中でも付き合いを嫌がられ、「あんな奴はいない方がいい」と言われる始末。それに対し久太郎先生は「法事や葬式の使者として使えばあれほど適任はいない。」と言い、実際主催者から「それほど深い縁でもないのに、大変お嘆きいただき感謝のしようもない」と言われるようになる。そうなると男の家中での扱いも粗略に扱われることはなくなったそうな。

どうですこれ。
あいつは使えないとか、仕事がトロいとか決めつけてませんか?
実はそれ、丁寧な仕事ぶりと言う事なのかもしれませんよ。

③組織の対立は上手に収拾すべし。
ある時、荷駄を運ぶ際に荷駄の数を決める勘定役と実際に荷駄を運ぶ担ぎ手ではどちらが偉いか、という論争になったそうです。
久太郎先生は「かつて蔵入り奉行をしていたので、勘定役の苦労は分かる。だが、担ぎ役はして事がないので、今からやってみよう。」と言って、荷駄を担いで小高い山を乗り越えてみせた。そこで両者に向かって「わしも戦で体を鍛えているんで、たかが荷駄くらいと思っていたが間違えだった。ここまで運ぶだけでヘトヘトになった。担ぎ役にはいつも苦労をかけていた。ありがたい事だ。これで勘定役も担ぎ役の苦労がわかったであろう。お互いの苦労を労わり合えば良いではないか。」と言って家中の結束を高めたそうです。

今もありますよね、現場対事務方、あるいは営業部対製造部、みたいな対立。
そんな時は、理屈で上手くまとめようとしたり、なあなあにごまかしたりしないで、体を張って両者の言い分を検証する事が解決への道なのかもしれませんね。

 

さて皆様。
2回にわたってお送りした、久太郎式ビジネスメソッド。
もうお気付きの事と思います。
そうなんです。
これって、
現在のビジネス本にも書いてある普通の事なんですよ。
400年以上経っても基本的な方法は変わっていないと言う事は、この基本的な方法こそが部下教育の真理なのではないでしょうか。

それにしても、久太郎の上司っぷりはどうですか?明日からでも仕えたいと思っちゃいますよね。
でもね、これほどの人物がドラマやマンガの主人公として取り上げられない理由も、この完璧さにあるのかもしれませんね。
だって、こんなに完璧過ぎると全然感情移入できないでしょ?

 

次回更新は2017年1月8日です。

出来る人になりたい

こんにちは、サエモンノ輔でござる。

 

どんな職業にも出来る人っていますよね。

 

何をやらせてもソツなくこなし、大きな挫折を味わう事なく順調に出世していく人。
あなたの周りにもいませんか?
そんな完璧超人が。

 

そういう人を羨み、そうなりたいと悶えてきた一般人の皆様。
実は「出来る人」との違いなんて、些細な事の積み重ねなのかもしれませんよ。

 

今回はそんな「出来る人」を学んでいきたいと思います。


本日の講師の先生は堀秀政さんです。
織田信長豊臣秀吉に仕えた戦国武将で、
通り名を久太郎といいます。

 

織田信長の小姓として武将人生をスタートした久太郎先生。
すぐにその才覚が認められ、信長の側近として次々と仕事を任されるようになります。
その仕事は各種奉行職での内政事務から、数々の有名合戦での部隊指揮まで様々。
その全ての分野で功名を挙げていった久太郎先生。ついた渾名は「名人久太郎」。

 

では、「久太郎式出来る人メソッド」を学んでいきましょう。

 

①部下への気遣いを忘れない。
久太郎先生は部隊を率いて行軍する際、
自分が騎乗する馬は一番足の遅い馬を選びました。
その理由は、大荷物を背負い徒歩で進む下級武士達が、戦の前に体力を消耗しないような行軍スピードに調節する為だったそうです。

負担が大きい(または能力の低い)人間に合わせて仕事を段取る事こそが、全体の効率や成果を上げる事なのかもしれないですね。

 

②仕事を仕組化する。
久太郎先生専用のトイレは必ず玄関近くに設置したそうです。
そうする事で、定期的に玄関警備の様子を確認出来る訳です。

先生、さすがです。
このエピソードは、部下の仕事状況をこまめに確認する大切さを教える話であると同時に、つい忘れがちになる事を、生活上必須の行動と組み合わせて漏れをなくす工夫の教えでもある訳です。
上司、先輩の立場の皆さん、部下の仕事にちゃんと注目してますか?
なかなか筋トレを習慣に出来ない皆さん、明日から通勤電車の中でつま先立ちして、筋トレを仕組み化しませんか!?

 

③部下からの指摘も受け入れる。
久太郎先生が北陸で城主になった時の事です。
城下の辻に、久太郎先生の施政を非難する立札が立てられました。
この時代の諫言は死罪に問われかねない一大事です。
統率者としては、簡単には受け入れる事は出来ない行動でした。
ところが、久太郎先生は家臣が持ちかえったその立札を、「これは我が家の家宝だ。」といって丁寧にしまい、すぐさま家臣達に内容を評議させて悪い点は改めたそうです。

今だってなかなかいませんよね、目下の人間からの忠告や指摘を受け入れる事が出来る上司って。ましてや、その指摘が正しければ正しいほど…。


いかがでしたか?
もちろん、これだけで出来る人になれるわけではありませんが、これをするかしないかだけでも大きな差があると思いませんか?


本当に出来る人というのは、部下のモチベーションを上げるためのちょっとした気遣いの積み重ねが出来る人なのかもしれませんよね。

 

ちなみに、立札のエピソード。
実は久太郎先生の自作自演という説もあるそうです。
だとしても、部下に危機意識を持たせて働かせるという、名人久太郎ここにありという逸話ですよね。


堀 秀政(ほり・ひでまさ)
1553〜1590
織田信長豊臣秀吉に仕えた武将。
その人使いの上手さから「名人久太郎」と呼ばれる。
豊臣秀吉からは「きゅうきゅう」と呼ばれ、およそ戦国武将らしからぬ渾名をつけられていた。

 

次回更新は12月25日です。

 

一目置かれたい

こんにちは。

サエモンノ輔でござる。

 

皆さんは、「存在感がない」とか「周りからの扱いが軽い」なんてことで悩んだことはありませんか?

人からどういう風に見られているのかって、気にし過ぎもよくありませんが、大切な事ですよね。
周りから一目置かれると、自分のやりたい事が通りやすくなるのは事実ですから。

 

今日はそんな、人に一目置かれる方法についてのお話を。

 

主人公は竹中重治

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍した人です。
一般的には竹中半兵衛の名前で有名ですよね。

 

彼を表現するならば、
「戦争マニア」

 

織田信長が攻め落とせずにいた城を、たった16人で乗っ取ってしまうほどの天才で、人生を戦争研究に捧げているようなところのある人物でした。

例えば戦場で使う馬。
「名馬に乗ると馬を惜しんで戦機を逃す」
といって、わざわざ貧相な馬に好んで乗ったそうです。

また、秀吉からこれまでの功績を評価され加増の話があったときも、
「そんな事は無用です。もし息子が自分の不覚悟を忘れて、殿は父にはこんなに懇意されていたのに、なぜ自分にはと恨みに思うような事になってはかえって災いを招きます。」
といって断ってしまう始末。

重治は、一事が万事この調子だったようで、物欲というものが抜け落ちているというか、生きる道を決めているというか…。
戦争研究のために日常があるような人だったようです。

 

そんな重治が息子に説いた話です。

ある日、幼い息子と合戦話していると、話が長くなり息子がふいに席を立ちます。
重治が怒って理由を尋ねると、
「小便に行ってきます」と。
これに重治はさらに激怒し、
「小便に立ちたくば、そのまま座敷で垂れ流せ。竹中の子は軍物語に聞き入って座敷を汚した。そう言われてこそ、我が家の面目がたつ。」
と言ったそうです。

 

すごいですね〜。
なかなか小便漏らしてまで聞け、という親はいませんよね。

しかしどうですか?
ここでもし、重治の言う通りに座敷で小便を漏らしていたら。
このエピソードは息子の武勇伝として語られ、親子2代に渡っての軍略家として名が残ったかもしれません。

 

一般的な価値観とは違ったとしても、ブレずに突き抜ける事。
これこそが人に強烈な印象を与え、周りから一目置かれる事に繋がるのではないでしょうか。

 

皆さんも、好きなことや得意なことを突き抜けてやってみてはどうでしょう?
人生が変わるかもしれませんよ。

 

ちなみに、小便を漏らさなかった重治の息子がどうなったか。
その後は父のいう通りに、小便を漏らしてまで軍物語を聞くようになった…のかはわかりませんが、関ヶ原の合戦では敵方大将を捕縛する大巧を挙げます。
しかし、息子は軍事よりも文才の方があったようで、豊臣秀吉の伝記や旅行記などを残して後世に名を残しました。

 

竹中 重治(たけなか・しげはる)
1544〜1579
織田家臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、実質的な軍事指担う。
黒田孝高とともに「両兵衛」と称される。
しかし、その軍功の逸話には後世の創作もあるとみられ、実像には謎が多い。

 

次回更新は12月11日の予定です。

贈り物をいただいたら

こんにちは。
サエモンノ輔でござる。

 

結婚祝い、新築祝い、出産祝い、誕生日etc…人生には折々に触れプレゼントをいただく機会がありますよね。

あなたはちゃんとそのお返しをしていますか?

いやいやその前に。
いただいたそのプレゼント、
一体どんな価値があるものなのかをちゃんと調べていますか?

その価値を知らずにお返しをしてしまうと、
とんでもない事になってしまうかも知れませんよ。

 

そう、彼のように。

 

彼の名前は北条氏政

氏政は小田原に本拠を持つ北条氏の四代目の当主です。
戦っては、上杉謙信武田信玄徳川家康といった超A級戦国武将と渡り合いながら、関東一円に勢力を拡大。
領国経営にいたっては、
低税率で年貢を設定し、
時には自ら畑仕事に従事する事もあったという領民思いの大名。

どうです?なかなかの名将・名君だと思いませんか?

 

ではなぜ、それほど有名ではないのか?
いやいや実は氏政。違う評判で有名なのです。

 

それは、
先々を見越せず豊臣秀吉に負けた凡将
というもの。

先祖の誰よりも領土を広げ領民からも慕われたのに、
後世の評判は、
「関東で意地を張って秀吉の大きさを見誤るなんて、なんと愚かな大名なんだ。」
という散々な氏政。

そんな悪評を後世に残す事になってしまう遠因となったエピソードをご紹介します。

 

氏政が徳川家康と同盟関係にあった頃の話です。
当時の状況は、
西では豊臣秀吉が着々と日本統一に向けて準備をしており、
東国の大大名・家康と氏政は協力して秀吉にそなえなければ…という時期です。
そんな折り、家康から氏政へ南蛮からの輸入品で珍品だったオレンジが贈られてきます。
ところが氏政は、
それをよく似ている日本の橙と勘違い。
「なんだ、徳川は橙が珍しいのか?それならもっと沢山送ってやれ」
と、橙を大量に送り返したそうな、
めでたしめでたし…って、オイ!

そりゃないよ氏政。
だってオレンジだよ?
鏡餅の上にのってたら違和感あるでしょう⁉︎
百歩譲って、オレンジを橙と間違っていたとしたって、
お返しに同じ橙を送っちゃダメでしょう〜。
「橙くらいうちにもあるぜ。珍しくもないぜ。」
っていってるようなもんだよ⁉︎
これから徳川と仲良くやっていかなきゃいけない時なのに、相手の顔に泥を塗ってどうすんのさ〜。

 

案の定、
家康は氏政の事を、
「物の価値が分からず、人の意図を理解できない奴だ…」と嘆き、
北条との同盟関係を見直します。

結局氏政は、
徳川家康という協力な同盟者をなくし、
豊臣秀吉に単独で戦うことになり、
滅亡への道を進む事になってしまいます。

 

さて、皆さんはいかがですか?

上司の出張土産が、
実は有名な老舗のお菓子だったりしてませんか?

ママ友からのお裾分け、
実はブランドフルーツだったりしてませんか?

いただき物をしたり、何かしてもらった際は、その価値をしっかりと見定めて、キッチリお礼・お返しをしましょうね。

でないと、あなたの今後の評価が大きく変わることになりかねませんよ…。


北条 氏政(ほうじょう・うじまさ)
1538〜1590
後北条氏四代目当主。
関東一円に勢力を広げるも、
豊臣秀吉によって滅ぼされる。
なかなか結論のでない会議の事を「小田原評定」というが、これは秀吉に攻められた際に決戦か降伏か決められなかった氏政に由来する。

 

次回更新は11月27日予定です。

 

出世したい

サラリーマンたるものやっぱり出世はしたいですよね。
では、出世する人ってどんな人なんでしょう。

仕事が出来る人?
意識の高い人?
論理的思考が出来る人?

今日はその答えの一つを教えてくれる戦国武将をご紹介したいと思います。

彼の名前は
田中 吉政

近江国(現在の滋賀県)の普通の農民から、
筑後(福岡県南部)一国32万石の国持ち大名にまで出世した武将です。

さぞかし素晴らしい武功があると思うでしょ?
ところがこの吉政、
戦況が不利になるとみるや、
目下の役廻りである伝令のふりをして、
後方へ逃走を計るというせこい手段を平気で使う男なのです。

周りにもいませんか?
いざお会計となると必ずトイレに行って帰ってこない人。
スケールは違いますが、
そんなタイプですね。

ではなぜそんな男が農民から大名にまで出世できたのか。

それは、
誰からも愛された人だったから。
だと、私は思います。

どうやら吉政は、
あまり物事にこだわらない闊達な人柄で、
そのうえ素直な人物だったようです。

たとえば、
侍になるために羽織袴を紺屋に作らせた時の話。
紺屋は本来の家紋とは左右逆に染めてしまった。
吉政は怒るでもなく、逆のまま家紋にしてしまったり・・・

まだ足軽身分の時代に、
枡を枕に昼寝をしていると、
傍らの盲人から
「これから一国一城の主になろうという人が、
大切な米を量る枡を枕にするとは何事か!」と叱られれば、
よくぞ叱ってくれたと御礼をしたり・・・

5万石の領主になってからも、
城下の見回りの中に空腹になると、
城から弁当を届けさせ、
領民と一緒に道端で食べたり・・・

そんなところが身分の上下を問わず誰からも愛されたのでしょう。

なにしろ、
関ヶ原の合戦で敗れ、逃亡中の石田三成が吉政に捕まった時に、
「同じ捕まるのならば、お前に捕まって良かった。」
と言ったくらいの愛されキャラなのですよ。

どんなに仕事が出来ても、
周りに足を引っ張られては成果は上がりませんよね。
上司、同僚、部下から愛され、
多少の失敗ならカバーしてもらえるような人柄。
これが出世する人の条件なのではないかと思うわけです。

実は、
枡の話には後日談があります。
吉政が筑後の大大名となり、入国した時の事。
集まった群衆の中に彼の盲人を発見。
再会を喜んだ吉政は、
盲人を検校(盲人の方に与えられる最高官位)として召しだし、
晩年まで面倒をみたそうです。
めでたしめでたし。

 

次回の更新は11月13日予定です。