暮らしの武将

暮らしや仕事に役立つ戦国武将の知恵やエピソードをご紹介いたします。

必要なのは「はらたいらさんに全部」

こんにちは。サエモンノ輔でござる。

 

人生には大なり小なり勝負時ってありますよね。
ここぞという時に自分の全てを賭ける瞬間です。そう、まさに「はらたいらさんに全部!」という感じに。
肝心なのは「度胸」と「タイミング」です。

 

それでは今回はそんな戦国クイズダービーを勝ち残った武将をご紹介しましょう。

 

彼の名前は山内一豊

尾張(現在の愛知県)出身の武将です。一豊を支える賢い妻とのお話が、司馬遼太郎の小説「功名が辻」で有名です。大河ドラマにもなりましたね。

 

一豊は豊臣秀吉の古くからの家臣で、とても律儀な人物として可愛がられたそうです。
戦場で部下から焼き大根を勧められると、口が臭くなって秀吉に会った時に失礼になると言って食べなかったなんていう、戦国武将らしからぬ繊細な逸話が残っている律儀者です。
しかし、律儀なだけで出世が出来るほど戦国時代は甘くはありません。同僚が10万石、20万石の大名になっていくのに、一豊は掛川5万石。

 

そんな一豊にやってきた勝負の瞬間。
それが世に言う「小山評定」です。
小山評定とは、現在の栃木県小山市で行われた軍議の事。この会議、関ヶ原の合戦直前に行われ、東軍の諸大名はまだどっちに味方をするのか決めかねていました。
我らが一豊は、徳川家康への味方を表明します。とは言っても、所詮は5万石ですから兵の数も少なく、あまり意味がありません。
そこで一豊は「徳川家康さんに全部!」とばかりに城から兵糧、領地まで全部を家康に差し出すと宣言。すると、他の大名達も我も我もと家康に領地を差し出しはじめ、家康は東日本のほとんどを手に入れる事が出来ました。
その後、本戦の関ヶ原の合戦では大した武功を立てられなかった一豊でしたが、全財産を賭けたあの一言のおかげで、土佐一国22万石の大大名へと出世したのでした。

 

重要なポイントだったのは、全部賭ける度胸と誰よりも先に切り出したタイミングだった訳ですね。
実は、領地から何から全部差し出すというアイデアは一豊が考えた物ではなく、旧知の仲だった堀尾忠氏の考えでした。忠氏が躊躇している間に一豊が発言してしまった…というの真相のようです。


会議や商談のここぞという場面で、常人と成功者を分けるのは度胸だけなのかもしれませんね。

 

山内 一豊(やまうち  かずとよ)

1545〜1605

一兵卒から高知の大名へと駆け上った武将。

司馬遼太郎の「功名が辻」のおかげで有名にもなったが、妻の尻に敷かれた大名として認知されてしまう。